1.31.2005

数字のナンセンス

電車の中で転職サービスのビラを見ました。「○○さんが年収30万円アップ!」と自慢げに唄っている。果たして30万円を理由に転職していいのか・・・?と思えたのでした。

働かなくて生活できちゃうには、どれだけお金が必要か。

一切働かないとしたら。「株なんて神経使うからヤダヤダ」だとしたら。生活面・精神面両方でまったくのプー。タチの悪い、且つワガママな肉の塊がどのようにすれば生活できるだろうか。ざっくり考えれば預金の利息にでも頼って食っていくしかなかろう。最近の銀行のレートを見ても、定期ですら年間0.1%以下。じゃあ、高めに見積もって0.1%のレートを死ぬまで受けられることにしようか。次は、生活費用だね。じゃあ。フツーのサラリーマン500万円としよう。利息オンリーで500万円稼がぬばならないとしたら、どれだけの預金が必要か。500万円÷0.1%・・・・50おくえん・・・だね。50おくえんあれば働かなくていいよ、多分。毎年・・・100万円貯金したとして・・・5千年かかるね。あ、まてよ、毎年1,000万円貯金したら500年しかかからない。

何が言いたい。50おくえんでもなければ働かなきゃならんのよ、基本的に。そして普通にやってりゃあありえない金額なんです。その中で年収500万円でカリカリ頑張っていようと、年収2,000万円でブイブイ言わせてようと、あまり変わらない。年末ジャンボあてても、結局「働く」ことは変わらんのだよ。500万円の仕事だったらそれなりに責任もしくは時間等の余裕がどこかにあるだろうし、2,000万円の仕事だったら高いプレッシャー相当のライフスタイルが約束されていて、ある程度「どちらがいい」というのは明確でないと思う。相殺しちゃってる。その大きなくくりの中で、ほとんどの人はガンで1年間入院してクビになったら困るだろうし、それぞれにとっての「たまには贅沢」があって、東京ではよほどのことがなければ朝の通勤は電車であって。帰りはタクシー券もらってるうらやましい人も一部いるかもしれんけど。みんな微妙な生活バランスを保っていて、究極的に崩れたら誰もが苦しむ。「どんぐりの背比べ」とはこういうことを言うのだと思う。

だから、年収500万円の人を見下す人も、年収2,000万円をうらやむ人も、同様うんこちゃんなのである。好きな事をやってる方がよほど大事なのよ。幸せ者勝ちであって。死ぬほど働く生活は、50おくえん持ってるごくごく一部の人でない限り、みんなそれなりに同じなのだし。

でたらめすぎたかな。

1.25.2005

スローダンス

スローダンスなんて出来やしないけど、ステキだと思う。ロマンチックというか。あまりにも遅くて、二人の体が少しユラユラする程度で、上手い下手が全然分からないようなやつ。上手い下手はどうでもいいのかな、きっと。

いや、他人がスローダンスしてるところを「じー」っと見たいということではないです。そもそもスローダンスそのものは見世物にしても意味がないのだと勝手に思う。引く・・・じゃん?なんか。踊ってる人のプライベートなんだよね。入る隙間がないわけであって。極論すれば、セックスする以上にプライベートであって、(このご時世)セックスする以上に照れくさくて、セックスする以上お互いを好きでないとそんなことぜーったい出来ないよね、きっと。今キーボード打ってる自分すら想像して赤面してくるのだから。いい大人が「セックス」連発してある意味自爆してるのもあるが。あ、子供だったっけ(昨日の記事ご参照)。

てなわけで。こんなイメージがある。

1.24.2005

25才の割には子供だそうです(おまけ)

元会社の先輩のブログを見て、ついつい恋愛診断。
http://hanihoh.com/love2/
父さんしっかり既婚者してます。ははは。そんなにモテるんだったら苦労してないって・・・。結果はこんなんでした。

ミーハーな一日でした、あしからず。

「普通」に変でいたい

カミサンに言わせて見れば、私は「目にもとまらぬ凡人」。

会社の先輩。「なんか。落ち着いちゃってるわよね+年齢不詳」。

(勝手に)バンドの守護神担当のtさん。「あんた変わりモン」とくる。

エゴ丸出しだとは思うが、変わり者という言葉はやっぱりうれしい。どこかで自分が特別だと思えるのはいいことだと思うし、自分の自信につながっていくものだと思う。俺しかできねーぞって。一方で、「普通」という言葉もうれしくないわけでない。「帰国」のステレオタイプと対立する日常の中、うまく溶け込めてるということである。なんともこの子、わがままのようだ。ようは、都合よく目立たせたいところで目立っていれば幸せなのである。いやー、かなりエゴってますね、困りますね。

でも表はきっと「普通」に収まってるのではないかと思う。それがたまに気になったりしなくもない。僕が好きなアーティストの大半は情緒不安定な要素があるし、勝手にそれがひとつの起爆剤だと思ってる。誰にも予測できない、「ズッキューン行くんだぞー、恐いぞー、なめるなー」的な空気がある。不健康なまでにズッキューンなのがカッコいいのである。僕はそういう人間でないと片付けてしまえばいいのだけど、あこがれなんでしょうね。指をくわえながら「かっこえーなー」程度な子供の気持ちなのかもしれない。

こういう悩みをギター君に相談して見たところ、さらっと返された。

ギター君。「ようは君はそういう人であって、このバンドの一人なんだよ」。

ごもっともでした。悩み一件解決。

1.20.2005

映画館と幽霊

子供がいることもあって、長いこと映画館というものに訪れていない。かといって子供が生まれる前も特に頻繁に通っていたわけでもないけど、まぁ、とにかく映画館に行くことは好きなんです。「映画でも見に行くかぁ!」とその場で決めたりして。まとまった時間があることや、思いついた時点で近くに映画館があることや、「その気」になる必要条件が結構難関であるけど。なんといっても「広い」と「暗い」空間がよろしい。とてもよい気分になる。副作用で判断力が鈍るせいか、映画館で見る映画は大抵好きになってしまう。きっと、大画面の迫力に負けてしまうのだと思う。いや、まぁ映画評論家失格でもいいんです。単純であることで得しているだけであって。トム・クルーズの「バニラ・スカイ」もこれは凄いがつくほど評判悪かったけど、個人的にはサントラからストーリーまでかなりお気に入りだった。

でもまぁ最近はすっかりご無沙汰になってしまってるわけです。そうなんだけど、ひとつ江東区に引っ越してよかったのは、マンションから10メートルくらいに24時間営業のビデオレンタル屋があったこと。最近、たまにカミサンと映画を借りにいく。なんとも悪趣味なんだが、お互い恐い系が好きで、心霊写真だの心霊ビデオだの呪怨だの。

幽霊っているかどうかは分からないけど、神様同様、いたらステキだなと思ってる。地縛霊とか恐いやつに限らなくて、一般的に(恐いビデオ見るのは結局ただの恐いもの見たさだけでさ)。死んだ後ウロウロしてるの。ウロウロしてる幽霊さん自身好きでウロウロしてるかどうかは分からんけど。「死んだらまっくら」よりはいいんじゃないかって思いません?なに、もう疲れたからいいって?

ごめんなさい、2回続けて「死ぬ系」ネタですが、何も意味ないからね。次回はも少し明るい話にしようっと。

1.18.2005

免責条項

前の記事で周囲がさぁーっと引いていくのが聴こえるようで・・・。いや、いいんです(なにがだ)。気にしないで下さい。うーん、誰が読んでるか分からないと、なんだかオロオロしてまうねぇ、オロオロ。オロオロ。オロロ~~ン。うーん。

今日は自分なりに久しく崩してみました。
ではまた次回。

バリ島への死の行進

昨夜帰り際の妄想。歌詞のネタにでもなるかと。どちらかというと自分へのメモ書き(すみません)。ネクラだなぁ、と我ながら思うけど、夜だったし、仕事で疲れてたし。ケケケ・・・クレイジーだ。

夜21時前後。気温・・寒いけど絶えられないほどではない。晴れ。bgm: lowの"sunflower"、TBS放送センターの横道の階段。ふと、バリ島のことを思う。行ったことない。なんか、死んだらバリ島に埋葬してねぇ、というおかしなキャラクターが思い浮かぶ。若いころ貯金ためていったのよぉ。素敵な思い出があるところだから。と頭悪そうに若い女は言う。周りにして見ればいい迷惑である。彼女はその後見事に交通事故で亡くなり、バリ島にて葬式が行われる。両親・一人サラリーマンの兄の貯金をはたいて。ただ、バリ島に行くにもそれなりの金が掛かるため、金と時間の余裕があるごく一部の親族・友人しか参加できず、それはもう質素な葬式であった(9人とか)。旅の疲れもあり、途中で寝てしまう者もちらほら。涙どころではない。参加・不参加を問わず、彼女の周囲では「バリ島=彼女」というイメージが出来上がってしまい、その後彼女の墓にお参りする者はいなかった。死の直前、彼女の友人のアカネちゃんは1週間のバリ島旅行を予定していたが、キャンセルしたことは言うまでもない。

少なくともそこに「神」はいなかった。

1.12.2005

公衆トイレと人の価値

くだらない話かもしれない。いや、くだらなさそうだけど結構まじめな話。まぁ聞いてください。そして食事中の方は後で読んでください。

公衆トイレってありますよね。どこにでも。駅にもあるし、コンビニにもあるし、そこら辺の公園にもあるし、あなたの職場にもきっとあるはず(なければ転職しましょう)。ひとつ思ったのが、公衆トイレの清潔さって地域とかその場所の特徴(飲食店であるとか、オフィスであるとか)とはあまり関係ないこと。私は赤坂にある大きなオフィスビルで働いていますが、銀行マンとか証券マンがうじゃうじゃいるんです。びしーっとしたスーツのやつ。ただ今日トイレにいったら・・・まぁカオスだったんですよ。がーーー。床がびしょびしょで。30万のスーツ着てても、一皮めくればだらしない人はいるものなのね。思いやりがないというか。潔癖症とでもなんでも呼んで貰っても結構なんだけど、なんだか許せなかったんです。方や、以前駅の公衆トイレに行ったとき案外キレイだった。

普通に考えれば一日何度も清掃のおばさんが入るオフィスビルのトイレが、めったに掃除されない駅のトイレより絶対キレイなはずなんです。そうでないのはなぜか。結局は使う人の心遣いではないだろうか。いくら清掃したって、次に使う人がちゃんとキレイに使わないとキリがないのである。「どうせ掃除しにくるんだし、いいや」という見っとも無い心がトイレの床に「でー」と寝そべってる。この際、一時期清掃をやめてしまえばいい。いい年になって、便所も満足に使わないなんて本当に情けない。

1.11.2005

第二ライブを終えて

バンドのホームページにて、先日吉祥寺star pine's cafeで行ったライブについてレポートを公開しました。ライブレポートというか、その1日の心境を書いたものになってます。ご興味があればどうぞ。今回のライブを終えて、課題もたくさん出てきたけど、ひとつ赤坂のライブより良かったのは、本当にヘトヘトに疲れたこと。消耗しきれたというか。結果はさておいてね。

今までの二つのライブに関して言えば、新曲作り、つまりバンドのコアサウンドを作ることを優先していたことを今振り返って思う。完璧ではないけど、どのようなサウンドが得意・不得意だの程度の感触は把握できたと思う。メンバーとはまだ相談中だけど、次のライブに向けては新曲作りより、既存の曲のまとまりを良くしたいのと、バンド全体の演奏力を上げたいと思う。「自信」というものを身に付けたい。最近になって、また一段とメンバー同士のコミュニケーションがよくなったような気もするし、見通しは良好。

なんだか今年の正月はライブのことで頭がいっぱいで、年明けの雰囲気を全然味わえなかった気がします。少し遅いけど、「あぁ今年も始まったなぁ」と実感する今日この頃。

1.07.2005

まだまだ素人

いよいよ今度の日曜日は2度目のライブです。今回は吉祥寺のstar pine's cafeというライブハウス。行ったことないけど、評判はいいらしい。前回の赤坂のjaka'zとは違って、ある程度人数が入るところだし、なにしろ「ステージ」というものがあるそうなので、プレッシャーの度合いが全然違う。

都合が良い体質のようだが、こういう場合私はあまり緊張しない。いや、正確に言うと当日緊張しないのだ。そのかわり、イベントの2、3日以内には必ずといってもいいほど、一度はモーレツな緊張の発作がある。手が震えたり、胃が煮え繰り返ったり。まさに今、会社で書きながらその状態。てなわけで今日の私はまったく使い物になっておりません。皆様ゴメンナサイ。かるーいパニック症である。気休めに歌詞を思い出そうとすると、ド忘れもして事態は更に悪化。「いつものことでしょ、なんとかなるでしょ」という冷静な反面がこういう記事を書かせるのだろうが、もう反面の私は今はボロボロだ。顔には出てないけど、エッライことになってる。

どーかなんとかなりますように。今はどーしようもない。
まぁ、なるようになる。訳わからん。

1.04.2005

とっくに行ってしまった年を振り返る

新年を迎えてから旧年をダラダラ振り返るのはいかがなものかと思うが、考えをまとめ忘れていたのでやっておこうと思う。新年のホウフは「いけるところまでいく」の一本だけで、我ながらオリジナリティに欠けることから、これについては語る意味はあんまりないかと。

昨年の正月では、私は外資系の証券会社に勤めていた。企業合併や買収のアドバイザー業務(M&Aという言葉が最近よく新聞で使われますね)の部署だったが、その時点で3年くらい勤めていた。大変だったけど、楽しかった。学卒で初めて入社した会社だったこともあったし、日本社会でのサバイバルを学んだ場所でもあったし、そこにいる恩師は数え切れない。とにかく思い入れは沢山あった。でも、問題は「その他」を抱える余裕がまったくなかった。早い話、このままこの仕事に一生をささげるまで自信がなくて、3年というラインを超えれば後戻りが出来ない気がした。ということで辞めた。この歳で言うのもなんともカッチョ悪いが夢を捨てられなかった。

やっぱり、死ぬときには音楽に関わる人間として覚えてもらいたい、音楽でまっとうな商売を実現したい、という気持ちが強かった。somatoneは自分にとってその気持ちの結晶。2004年はスタートラインにたどり着くための年だった。かな。うん。

1.02.2005

私の大晦日

大晦日、特に遅くまで起きてる予定はなかったのだが、カミサンの実家の方々との会話を終え、気をまぎらわせるため、ちらほら正月の特番を見ていた。格闘技・・・うっわぁー、鼻血・・・あまりめでたくない・・・お笑い・・・いつもなら見るけど、あまりそういう気分でなく、メランコリーさに欠ける・・・結局、消去法で年々落ち目の紅白にたどり着く。

多分後半だったと思うが、さだまさしが歌ってた。曲名もしらないし、アーティストもあまりよくしらないが、面白い光景であった。歌、というよりは楽曲とポエトリーが半分半分。「メリークリスマス」という歌詞を挟みながらぐわーっと早口言葉のようにポエトリーを吐き出す。記憶がまだらであれだけど、主な内容は反戦的なものであった。「独裁者はもう倒されたのに」「あなたの子供を戦場に送り出す」といった、断片的な言葉は覚えてる。NHKでもこんなのアリなんだ。いや、実はアリじゃなかったのにまさし、その場でやっちゃったっていう話だったらかなりステキだったかもしれない。残念なことに、見ながら「うぉーそうだー」と感情は燃え上がらなかったが、あ、まだいたんだ、反戦の声、という感じ。なぜ燃えられなかったのかは不明。ただ、エンディングで同じ彼はほかの出演者とずいぶんうまいこと溶け込んで笑顔で手を振っていたのが、彼が歌い終わった言葉の価値を薄めた気がしなくもない。あと、とっくにクリスマスが終わっていたことも関係あるのかもしれない。

夜中数分前なのに、まだチャネルをカチカチ回してる。「何を見て零時を迎えるべきか」というモヤモヤが徐々に苛立ちとなり、「なぜテレビを見ながら零時を迎えなければならないのか(バカヤロウ)」という考えに展開し、5分前にテレビを切ってしまう。ipodを拾い、先日落とし込んだおいたsomatoneの練習の音源を聞き、予習。今年はsomatoneで始まる。