3.10.2019

この瞬間にかける

10年磨いてきた焙煎の技、15年の研究と苦心で完成した抽出法、生涯をかけたコーヒー豆のブレンドでできた一杯のブレンドコーヒー。どうぞ、と小さな無垢のカップで私の前に出された。

香りを嗅ぎ、そのままカップのふちに唇を当てる。

「おいしい」

マスターに向けて発したわけではなく、ついつい口に出てしまった。わたしはとりわけグルメじゃない。おいしいと感じたのは店の雰囲気に言わされてる気もしなくもない。何はともあれ、心から美味しいと思えた。

「ありがとうございます」

マスターも自分に向けられた言葉なのかわからなかったようで、目を合わせず礼の言葉を空中にひっかけた。緊張が解けたのか、まもなくカウンター裏にあるスツールに腰をかけてスポーツ新聞を開き、足を組んだ。さっきまでの張りつめた雰囲気はいっきになくなり、紳士的なマスターが馬券売場のおじさんさながらの凡人に変身した。

冷めていくコーヒーをいただきながら、感動の瞬間は儚いものだと思った。明日はドトールでいいか。