6.22.2018

遅咲き

私は笹沼春彦、67才、自由ヶ丘在住。一昨年定年退職したばかりだ。妻には先立たれ、息子家族はシンガポールで暮らしている。在職中は転勤族だったこともあり、正直にいうと交友関係はそんなに広くない。送別してくれたばかりの会社連中とつるむのも、今ひとつ気がひける。

暇だ。金と時間だけの余裕がある。贅沢な悩みだとわかっている。

流行している大人の音楽教室に通うことにした。とりわけ音楽への関心が強いわけでないが、一人でもできるし、飽きなければ年単位で時間を費やせると思えた。楽器は、持ち運びが楽なバイオリンを選んだ。他にもウクレレやフルートもあったが、今ひとつピンとこなかった。

三ヶ月かかったが、きらきら星とか簡単な曲が弾けるようになった。先生に言われた通りの形や動作を再現したに過ぎないが、自分の手から音楽が奏でられることはなかなか嬉しいことだった。

テレビやインターネットでバイオリニストの映像を見たりするが、その技量や表現力の凄さが少しだけ分かる気がした。目をつぶっていつか自分も…と妄想するのも楽しい。この歳ではじめてドレミファを引いた自分ののびしろなんて、たかが知れてる。それでも続けて、できるところまでやることに意味があるような気がしている。

こないだ先生に、教室の発表会で演奏しないかと誘われた。発表会のことは知っていたが、聞かせる身内がいない自分にとって関係のないことだと思っていた。先生も商売だし、気まずいながら全生徒に声かけてをする決まり事でもあるのだろう。

自分でも驚いてるんだが、発表会でチューリップを弾く流れになった。

いま控え室で震えているところだ。