7.25.2008

舐めるように

地下鉄の車両はいつの間にか混んでいた。私はたまたまその日は、沿線の終点から終点に乗ることでこの都会を横断していた。今頃、都心部であろうと想像した。つり革を人差し指と中指で引っ掻けて、真っ暗な窓とにらめっこをしていた。

弱冷房車に乗ってしまったようで、にじみ出る汗でワイシャツが肌にべたつく。強烈な汗の匂いがする。体臭でもなく、口臭でもなく、紛れもなく汗、汗、汗。

私の隣に女性が立つ。正確にいうと、彼女がどこかから左腕を伸ばして、私の隣のつり革をつかんだ。一目見てとても美しい腕だと分かる。指先の爪はちょうどいい長さで形も綺麗に整えてある。指は長め。サラサラ白い肌。上品なゴールドの時計。ノースリーブ。他に説明のしようがない、触ったら気持ちいいに違いない二の腕。

体制的に、これ以上は頭を回すことが出来ず、あと少しというところで彼女の顔を拝むことが出来なかった。私の顔から十数センチの近距離に、魅惑の手。軽く、ほんの少量の香水が手首にかかっているようで、数々の人の汗の匂いをやさしくすり抜け、その香りは私の神経を刺激する。

7.17.2008

スケベ心の一気飲み

このコーラを一気飲みできたら、何をくれる?
とあなたが私に尋ねてきたとしよう。

そこで私はほぼ間違いなくあなたに対して、何を突然言うんだい、とその根底を探るだろう。あなたがその時点で何を言おうと、多分、既にあなたのことを少し疑っていることだろう。そしてあなたは多分、ヒマだから、とか、私がさえない顔してるから慰めてやろうと思って、とかテキトーなことを言うに決まっている。

じゃあ、それはいいけど、そもそもコーラを一気飲みしたところで何故それが褒美に値する行為かは?私に何の価値があるのか、と、半場呆れながら私は一応、確認してやるだろう。笑顔はプライスレスだろうキミ、とあなたは懲りずにジャレてくると思う。そして一間おいて、すこし声を下げて、ちょっとした褒美で私に笑顔をくれるならば安いものだろう、と真面目そうに語るだろう。でたらめなことをシャーシャーと。

そうとなり、ここまで話に付き合ってしまった私は引き返すツテを失い、話に乗らざるを得ない状況となるだろう。じゃあ、100円玉か、カバンを持ってやるとか、コーヒーをおごってやるとか、ひとまず自分に害のないものを提案するのが私の性格だ。待ってましたとあなたはニヤっと笑い、いやいや、そこまで可愛いものでは安すぎるな、と鼻で笑う。

じゃあ、私から何がほしいというのだ。

ちょっと元気になってくれれば、それで僕は満足だよ。

バカ野郎。何がいいんだ。

じゃあ、アンタの大事にしている彼女さんを紹介してもらおうか。

どうでも良いといえばどうでも良いことだが、イヤと言えばイヤなことを、あなたが言ってくる。どんな悪さを企んでいるのかは、当然あなただってそう簡単に種明かしをするようなタマではない。

何なんだってば。

何でもないってば。君がいつも自慢気に話す彼女の顔を拝みたいだけだ。

コーラはキンキンに冷えてるか?

ああ、キンキンに冷えてる。

じゃあ頼もうか。

7.15.2008

ほっつき歩くを辞書で引く

恵子と学は同じ会社の営業部で勤めていて、それぞれ入社2年目、3年目の社員だ。同じ部署とはいえ、この会社の営業部は50人を超える大きな部署で、今までは関わることなくお互いの雑務をこなす日々を過ごしていた。今回の案件で、肩を並べて働くのはたまたまはじめてのことだった。

とある朝、恵子と学は地方での野暮用を命じられ、二人っきりで新幹線に乗ることになった。数時間もの間、隣同士の席に座っているものだから、お互い少し気まずく、会話もポツリポツリと断片的なものに過ぎなかった。その内、学がウトウト寝てしまった。恵子はスヤスヤ眠る学を見ながら、どうかしらこの男、と彼を吟味してみた。そこそこやさしく、言葉数少なく、仕事はいたって平凡な出来。まぁまぁだけど、無しっちゃあ無し、ありっちゃアリって感じね。

さて二人は用事を済ませ、ようやく夕方に東京に到着した。駅を出ると、外が物騒がしい。道はパトカーや消防車や救急車でびっしり渋滞している。何事かと思いながら二人はタクシーに乗り、運転手に行き先を伝えた。運転手はその建物の名前を聞き、二人に言った。何も聞いてないのかい?あの建物は昼過ぎに大火事になっていて、随分古い建物だからなのか、ついさっき崩壊してしまったそうだ。消防車とかだけじゃなく、報道局でもテレビでも大騒ぎになっていて、今あそこに近寄ることなんて無理だ。さっきラジオで聞いた話だと、被害者はすごい数になりそうだ。

恵子と学はタクシーを再び下車し、しばらくの間その角でポカーンとしていた。恵子は座り込んだ。思い出したかのようにバックの中をゴソゴソ探りはじめた。学は恵子に尋ねた。

「何探してるの?」

「携帯。無事だって、母さんに連絡しなきゃ。学さんもそうすれば?」

「ちょっと待って。」

「待って、って。何を?」

「世の中の皆が君が死んでしまったと思い込んでいて、実は本人は元気で東京のど真ん中にいたとしたらどうする?」

「そんな例え話をしてる場合かしら?」

「例え話じゃないから、さ。」

二人は歩き始めた。歩いて歩いて歩いていくと、御茶ノ水あたりで喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。喫茶店を出た後、銀座で映画を見に行った。映画を出ると食事をし、食事の後は酒を飲み、酒を飲んだあとは抱き合った。ホテルのベッドで、先程の東京駅の街角であったように、二人はポカーンとしていた。

「もうそろそろ、帰ろうか。」

「その前に、家に電話をしなければね。」

「そうだね。」

「そうね。」

7.09.2008

腕一杯の距離と言葉の隙間

「もしもし。」

「母ちゃん、久しぶり。友幸だよ。」

「あら、しばらくね。」

「なかなか、時間ができなくてね。」

「いま、家にいるの?」

「ん?あぁ、家。」

「あなた、仕事はなにやってるの?」

「前と同じだよ。」

「パソコンの中身を作るお仕事のこと?」

「いや、違う違う。お金を運用するアドバイスをする仕事だよ。」

「それって悪いことじゃないわよね?」

「大丈夫だよ。大きい会社の系列だから。サラ金じゃあるまいし。」

「そう。お母さん、お金のことはよく分からないから。」

「俺も、よく分かっちゃいない。」

「そう。長く、続きそうなの?」

「それも、よく分からない。生活は、問題ないんだけど。」

「お父さん、最近良くないのよ。」

「医者の言うこと、まだ聞かないのか?」

「そうなの。食べるものも、変わらないし。」

「仕方ないな、アノ人は。」

「あたしも疲れちゃったの。」

「ああ。」

「あなたも、身体は丈夫じゃないんだから、ね。」

「それは分かってる。」

会話が突如加速する。

「俺、もうそろそろ飯だから。」

「あら、そう。じゃあ、身体に気をつけてください。またね。」

「親父にもよろしく。」

「はい。」

虫のしらせ

一週間前くらいから、耳鳴りがする。起きてる時間はほとんど、慢性的に「キーン」という音が鳴っている。うるさい音楽を聴いた後の感覚に近い。この音はうるさくもなく、静かでもなく、ただただ絶え間なく鳴っている。人が何かを訴えたい時も、どんな大きな声で怒鳴るより、どんなやさしい声でささやくより、とにかく絶え間なく、繰り返し、しつこく伝えることが心を動かす方法の一つという。だから、僕はこの耳鳴りが何かの虫のしらせ、だという考えに至った。

ただ、かれこれ一週間もその耳鳴りは続いていて、何も起こる気配がない。年寄りの血族に異常がないか、それと遠くに住む友人に変わりないか、わざわざ確認をした。身の回りは至って平凡そのものだ。健康診断だって2度受けた。僕はもとから仕事に打ち込む肌でもないので、仕事運に関しては興味がなく、虫だって仕事に関心のない者に仕事の知らせをするほどヒマではないはずだ。

昨夜になって、悪夢を見た。僕の体が自動車であるという設定で、スクラップ行きになるために解体されていく夢だ。まだ走れるのになぁ、と思いながら腕や脚が外されていく。少しだが、痛みも感じる。身体には異常がないはずなんだが。とりあえず汗びっしょりで目が覚めてしまい、寝付けないので外を歩くことにした。

これも間違いだった。夜の街の占い師が目に入る。通り過ぎた占い師のほとんどと目を合わせてしまっている。気のせいか、どの占い師も僕に何か言いたいそうな顔をしているように見える。僕はたえきれず、帰り道に最後の占い師のところに立ち止まった。占って欲しいことがあるんですが。占い師はもの言いたさそうな顔をしていたくせに、いざたずねるとキョトンとした顔をしやがる。

虫が先にアンタに知らせたようだね。私になんの用だい?

いや、それが分からないから、こうここに・・・。

分かりなさいよ。それくらいのこと。

7.03.2008

風で落ちた果実

ミキオとサトルが道端でばったり会った。

ミキオの足取りがやたらと軽やかだ。サトルはミキオに、何か良いことでもあったかと尋ねると、ミキオはつい先程500円玉を拾ったとのこと。お金をそのままネコババし、すぐ側にあったコンビニでアンパンと飲むヨーグルトを買ったそうだ。

交番なんて、行かないよね。

なにしろ500円ぽっち、だからな。

その反面、サトルはほんの僅か、しかめ面だ。何か悪いものでも食ったかとミキオが尋ねると、偶然にもサトルも先程お金を拾ったんだとか。ただサトルの場合、額が500円「玉」ではなく、一万円札を拾ってしまった。風に飛ばされそうになったとたん、思わず足で踏んでそのまま手にとってしまった。一万円もの金額を何事もなかったかのうようにポケットにしまいこむには後ろめたさを感じた。サトルは少し考えてから、お金を交番に届けることにした。

ところが、だ。

ちょうど交番で届出書を書いてるタイミングで、落とし主が交番を訪れた。年寄りのばあさんだった。どうやらこの街の人ではないらしく、落とした一万円なくしては帰りの交通費がないくらいお金に困っているそうで。結局、一万円はその場で落とし主へ返された。

お年寄りにヘコヘコされて、気まずくてとてもじゃないが、褒美なんかもらえる雰囲気ではなかったよ。

それは、とても気まずいね。いっそのこと、あんたネコババしようと思ったでしょうと、疑われた方が楽だったかもしれない。