3.27.2010

カナリア

おばあさんは、街でひとりで暮らしています。以前はおじいさんと二人でしたが、おじいさんは亡くなってしまいました。そのまた以前は、息子と娘がいましたが、いまは二人とも家をでていて、それぞれ違う街ではたらいたり自分たちの家族をつくりました。

おばあさんは、ほとんど毎日ひとりでいるので、あまりおしゃべりもしていません。昨日なんか、電話も鳴らなかったので一言もしゃべらずに一日が終わってしまいました。不幸せじゃないけど、たまにはおしゃべりしたいなあ、と思うようになりました。

でも、はなすことがなければ会話にならないし、おばあさんはこの何年間か、毎日ほとんど同じなせいかつをしてきたので人が楽しめるはなしができないと心配でした。

なので、おばあさんはカナリアを飼うことにしました。カナリアだったら、聞き手がたいくつなおばあさんでも、美しいうたをきかせてくれるし、おばあさんが好きなだけ話しかけてもおとなしく聞いてくれると思ったからです。

おばあさんはカナリアをとてもかわいがりました。おまけに、息子と娘の子供がたまたま遊びにきたときカナリアを気に入ったようで、それからは良くおばあさんの家に来るようになり、カナリアを飼うようになった話を何度も何度もおばあさんにしゃべらせるようになりました。

3.20.2010

レゴブロックの山あれば

らちがあかないので、いっそのことツチノコを作ってやろうではないか。

科学の進歩は果てを知らず、やがて生命をも自在に操ることが可能になった。神の領域に着実に近づいた瞬間だった。問題は、その凄まじい力を具体的に、何に使うべきなのか決めかねていた。思いのままに動く奴隷軍隊を立ち上げて世界征服を図る者もおらず、あるいは失われつつある文明を保全したり、絶滅寸前の生き物を救おうとする声もあがらないでいた。気が付けば、人の願いや希望は幾分素朴なものになっていた。

そうともなるといくら素晴らしい技術でも遊び道具に過ぎず、ツチノコを作ろうだの、誰が最も美しい女性や男性を作れるか競うだのどんどん下らない方向へと進んでいた。その様子を見下ろしていた神は、こいつらやっぱりアホだ、とひとまずホッとした。この技術に人生を捧げてきた数々の研究者は相当むなしい思いをしたに違いない。

それでは、ひとまずツチノコはおあずけにして、この技術の使い道を考えてくれる、頭の冴えた人間をつくってやろう。欲望、とか夢、愛、とかそういうのも、いっぱいつめて…。そして僕らで育てるんだ。

ていうか、誰か普通に子供作ればいいじゃないか。結婚してるやつ、いるだろう?

あ、うちは共働きで子供つくる予定ないから。ほとんどみんな同じだった。

ありゃ、少なくとも僕らの滅亡は確定でしたな。部屋はしばらく笑いにつつまれた。

3.18.2010

ルドウィッヒの意図

ヒナミケイスケです。

ありがたいことにカルテットのお声掛けをいただき、昨夜は久しぶりにクラシックの譜面と向き合いました。クラシックのアンサンブルは本当に久しぶりなので、何かと不安が多いですが、ステキな機会なのでひとまず頑張って見ようと思います。とかいって、すぐクビになったりして。はは。

本を読むように、まずは楽器をもたずに譜面を読むことが好きです。最初はオタマジャクシのジャングルだったものが、繰り返しているうち頭の中で少しずつ音楽が流れるようになります。ここは難しそう、ここはちょっと強弱を、ここの指使いはあーでこーで、ここはやさしく、と思ったところは鉛筆でマーキングしていきます。

正直にいうと、時間だけかけて人に聞かせられるレベルになれるかどうか分かりませんが、いつかそんな公で演奏できる機会があれば…あたたかく見守ってください(笑)。

私見ではありますが、クラシックには「へたうま」がありません。表現力が豊でも技術も合わせてなければ結構台無しです、逆もしかり。まして、ベートーベンだのバッハだのレパートリーのほぼ全てが言わばカバーソングなので、星の数ほど模範例があります。どう立ち回っても、他人も自分も演奏を客観視せざるをえない構図なのです。

自ら不安に拍車をかけてしまぃましたが、頑張ってまいります。やれやれ。

3.16.2010

こけしは男の子

法事でお寺に行きました。もとからお経を聞くのは好きです。不謹慎だといけないのですが、あの歌にはとても独特な訴えを感じます。お坊さんの、しめの小話も好きです。習慣の由来は良く分かりませんが、一日中不思議な言語をとなえる身になってみれば、たまには普通の日本語を喋ったり、お坊さんだって人間なんだこのやろう、とアピールしたい気持ちもなきにしてもあらず、なんだと思います。

こけし、と聞いて何を思い浮かべますか?私は、地味な工芸品、でした。お坊さんによると、こけしにはとても悲しい話がついているのです、とのこと。昔の農民の大半はあまりにも貧しかったため、長男あるいは特段かわいい女の子以外の子供を山に捨てたそうです。そのさい、気の毒な子供を供養するためにこけしをこしらえ、神棚においたのだそうです。ちなみに本来こけしは犠牲になりがちだった男の子がモチーフになっているそうです。

言葉を分解すれば、その事実は名前にも短くまとめられています。子、消し、と。

知っている人もいると思いますが、はじめて聞いた私はちょっとショックで、お坊さんの言いたかったこと(生きてることのありがたさ等々)なんぞすっかり忘れてしまいました。この由来の信憑性に関してもガセネタ説はもちろんあり、断言はできないですが、自分の中ではお坊さんが言ったなら間違いないであろう、とお坊さんはウソつかない前提で真実と整理してます。

それはさておき。

人類の記憶の儚さに驚かされた日でした。

3.14.2010

詰まるところ願いは

昌夫は雪子に大変な片思いをしていたが、結果その恋は実ることなく、二人ははなればなれに生涯を終えた。なぜ昌夫がそこまで雪子のことが好きだったのか、なぜ、むすばれなかったとかは誰にも分かりっこない。他人の恋というのは大概理解しがたいものだし、したがって他人の恋は一般的には退屈なことだとも言えるのだ。

さておき、

昌夫は、最期の瞬間に考えたことは、もっと雪子の側にいられれば、という想いだった。

二人は再会した。雪子は再び女として生まれ変わり、春子となった。昌夫はというと、それよりは少し話はややこしいが春子が運転する自動車に搭載されたメーカーオプションのエアバッグシステムに生まれ変わった。

昌夫(とするが)は最期の願いが叶ったことは嬉しかったが、自分が春子に役立つことができる唯一のシチュエーションを考えると、複雑な気持ちだった。そして、静かに春子を見守った。

日本人の乗用車の平均保有期間は足元の景気後退により長期化してきたとはいえ、せいぜい六年半だと言われている。春子もその一人で、月日は流れてやがて買い換えの時期になった。幸いなことに、春子は一度も大きな事故にあわなかった。

車が引き取られる日、さようなら春子、と昌夫は機械の心でつぶやいたのだった。