9.25.2014

右利きの彼女

鈴木正吉、26才会社員。鏡の世界で生活しはじめて半年ほど経つが、思いの外穏やかに暮らしている。

魔女との約束は一年間だったが、正直このまま戻らない方がいいと思っている。家族や友人は変わらずいるし、暮らしなれた街、仕事、いわば自分の人生は元の世界のまま。文字や地図が反転していることに最初のころは戸惑ったが、もう慣れてしまった。

違うのは元々右利きだった自分がこの世界では「左利き扱い」であることくらいだ。こちらでは左利きが多数で、右利きが少数だ。へぇ鈴木さん右利きなんだ、と指摘される程度のことで、このご時世偏見を抱くものがいないとは言い切れないが本人としては問題でもなにでもない。

ところが右利きであることをきっかけに、恋人ができてしまった。土田美音という女性と飲み会で隣同士になり、料理を取り分けるときにお互い右利きだということが仲良くなるきっかけとなった。

元の世界にも左利きの土田美音がいることは確実だが、戻ったとしたら、はたして同じように関係を保てるか不安な鈴木であった。

9.09.2014

私の名前は安西文夫

私の名前は安西、今年61才。周囲にはアズマという名で通している。川崎駅近くの多摩川の鉄橋の下で暮らしている。先週だったか、大倉と名乗る男が訪ねてきた。

自分は用心深い方だと思う。こういう生活をしていて、関わろうとする輩は大概ろくなことを考えていない。高い報酬に騙されて薬物の運び屋をさせられた者や、名前と顔だけを借りたいと言われ殺人容疑に巻き込まれた者もいる。無論、きれいさっぱりいなくなった知り合いもいる。

「ごめんください」

その男は大きな声で、何度も呼びかけて来た。私はその声を無視したが、声が近づくにつれて足音も聞こえてきた。横たわったまま覗き穴に顔を向けると、ダンボール家のすぐ外に背筋をピンと伸ばした紳士が立っていて、その笑顔の中で歯がキラリと光っていた。

歳は私と同じくらいだが、生き物がまったく違う。白髪混じりの髪の毛は後ろ流しに硬められ、堀の深い顔が際立っている。はっきり折り目のついた紺のスーツに、埃もすべり落ちてしまいそうなピカピカの革靴をはいていた。

「腹減りませんか」

男は右手に持っていたレジ袋を前に出した。覗き穴から目を離さず、私は気配を完全に消した。

「私は大倉といいます。また来週来ます。」

男が残していったレジ袋にはコーラとチョコレートとのり弁当が入っていた。