2.27.2006

冬の終わり、年初め

緊張?はい。

もはや理屈ではないです。
ライブが近づいてきました。

都合がいい体質なのかどうかわかりませんが、当日を除いてライブ前一週間以内に必ず、一度はパニックに陥ります。武者ぶるいとかそういったカッコいいものではなく。ワーキャー騒ぐわけではないのですが、変な汗かいたり、他のものに集中できなかったり。人を無視してしまったり、やや自意識過剰(?)な。2年前同じようなことを書いてたような気がします。

生き物的に、手に汗がにじんでも、何もメリットがないです。なんで汗、よりによって手、なんでしょうね。逃げ足が速くなるわけでもなく、手がベトベトするだけ。お手洗いに避難する口実になります。口実、というよりは、事情、かしら。あ、手洗わなきゃ。的な。

楽しみなんですけどね。そりゃ。
当日は多分、落ち着きを取り戻すことが出来るのでしょうが。
とても幸福なんですよ。ライブが出来て。
おっかなくて、楽しみなんです。
でも、それで一番いいんじゃないでしょうか(自問)。

全然恐くなくて、冷静だったら、やる意味ないかもね。

いらして下さいまし。

2.21.2006

不登校なアフタヌーン

過去の栄光を取り戻すために、スケートリンクに行ってきました。

今はおデブですが、少年時代はちょっとだけスポーツをかじってた時期もあったんです。私はアイスホッケーをやっていました。いつになるかは分からないけど、いつか家族でスケートリンクに行きたい、とか思っていて、今日は下見してきたんです。ついでに、まだスケート覚えてるかどうか、確認も兼ねて。

幸い、身体は覚えてくれていたようです。ひとまず安心。そして不思議。身体えらい。考えない方が、自然に足が動く。Yシャツとチョッキだけだとやっぱり寒い。寒い、寒い・・・んだけど汗もかく。すぐさま寒くなる。動きつづけると温まる。一時間くらいボーっとしながら滑って楽しみました。転ばなかったぜ。

そりゃあ、家族の前でカッコつけたいもん。だって。そうでしょ?
したたかとでもなんともでもおっしゃって。輝く場面は多くないんですから。

平日の昼間といい、リンクは案外にぎやかでした。チュチュを着けたフイギュアの女の子、それをヨタヨタしながらも懸命にナンパする大学生。壁にしがみつくチビッコ、負けずにキャーキャー壁にしがみつく母親。個人レッスンを受けるおばあさん・おじいさん達。アイスダンスの練習をする老夫婦。流行はとっくの昔に過ぎたのだろうが、まだ色々いるんだなぁって。

しばらくスイスイやって、ちょっとスッキリしました。

2.20.2006

尽くせとささやく

中学生か高校生だった頃、両親に自分の名前の意味を尋ねたことがあります。人助けをしなされ、という希望をこめて命名したそうです。「京佐」という漢字からそれをどう読み取ればいいのさ、全くナゾのままですが。親が果たして、「人助けをする人になれよぉ」と願っていたなのか、「人助けをする人になるといいなぁ」と想像していたのか、「意地でも人助けをするように育てるッ」という決心だったのか。自分に身近な事で結構アップアップであることが多く、その使命には応えられていないのが実情。ちなみに、コンセプトそのものに異議があるわけではない。

子供の名前は「健」といいます。妊娠中色々あって、健康でいて欲しいという願いでした。ずっと健康でいるように育てるッ、という考えに変えようか、と今思ったりしています。

占いは基本的に当たるモノだと考えているからちょっと恐い。が、その分野に精通した友人がたまたま診断してくれたのを覚えている。「尽くすタイプ」の人間なのだそう。もっと尽くすように生きるべきなのか、たまたま尽くすのが自然体な人間なのか、尽くすってなんだろう。誰かさんのために何やってるかってこと?線引きが難しい。命名と若干かぶってるから不思議ちゃん。

自分のために何かやるって何かしら。

人のために何かやって、満足感とか達成感とか感じたらその時点で自分のために何かやったわけだし。だったら達成感とか満足感とか全然ないように、敢えて自分が良い思いを一切しないように人のために何かやる、見たいなのも変。自分だけの事をやって周囲を無視ってのも自己完結していてあまり面白くなさそう。わかんない話になってきた。

2.15.2006

十字架のごとく

地下鉄アナウンス。

本日も半蔵門線をご利用いただき、ありがとうございます。

今朝6時50分ごろ、○○駅で人身事故がおきた関係でダイアルが大変乱れております。大変お急ぎの中、ご迷惑をおかけしていることをお詫び申し上げます。そもそも、私はなぜこういった事故がこれだけ頻繁に起きてしまうのか、考えていました。不幸にあった方の事情はよく分かりませんが、私たちも謝らなければならないのです。その方は謝罪できる状態でないでしょうし、お客様の苛立ちのはけ口が必要なのです。その役割は運転手の私が勤めているんです。

もしかして、最近駅の改装工事が多いせいか、以前より人ごみが気になるようになった方もいるかもしれません。それは我々の工事の段取りの悪さが関係しているかもしれません。一生懸命やってるのですが。本当は、より快適に駅を利用していただけるように頑張っているのですが、これが裏目に働いてしまったのであれば非常に残念です。イヤになってしまいますよね、きっと。本当にご迷惑をおかけしています。

もともと駅を増やせばよかったですね。新線を開発していた頃の計画のツメが甘かったかもしれません。我々も当然ながら地下鉄事業だけでなくて、駅周辺の不動産開発もやってますから。「街づくり」というやつですね。人口がこれだけ偏って集中してしまったのも私たちの責任かもしれません。本当に申し訳ございません。東京の人口が増えてしまったのも、私たちの地下鉄が便利すぎて、東京の生活が豊だと思っている方も増えてしまったからでしょう。本当にごめんなさい。これも私たちのせいです。

あと、あなたの仕事が上手くいかないのも、あなたがドアに挟まれそうになったのも、猫が肺がんで死んでしまったのも、あなたがライブドアの株を買っていて大損をかましてしまったのも、缶コーヒーが熱すぎて焼けどしたのも、彼女にフラれてしまったのも、全部、私たちが謝ってもおかしくはないはずなんです。

次は、大手町です・・・。

2.14.2006

世にも卑劣な

とある下町の道角にて。

中年の男性はもう、我慢ならなかった。持っている洋服は全部、丈が長すぎる。意図しているわけでもないのに、そうなってしまう。紺色のスラックスの裾が、ホコリだらけの革靴を隠すかのように、だらしなくたれている。くたびれたブレイザーを羽織っている。電柱によりかかって、貧乏ゆすりをしている。

「おじょうちゃん、どこ行くの?」

「おうち」

「おじちゃんのところへ遊びにきなよ」

男の目はひどく優しかった。少女は男に抵抗しなかった。男は、少女の手をつないで近くの古いマンションの一室に連れて行った。巨大マンションの6階へと、狭いエレベータがゆっくり上る。男はエレベータを出ると、出口の手前のドアに大きな鍵をさす。ドアがずっしり重い。昼間なのに、中のカーテンは閉めきっている。薄い布は赤い夕焼けに染まっていた。小さなタンス、テレビ台、テーブルのシルエットが分かる。男はパチンとスイッチを入れ、白い蛍光灯がつく。

「ジュースもってくるから、ここでちょっと待っててね」

男は少女をテーブルに座らせ、台所に行った。

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「知らない人についていっちゃダメなんだからね」

少女は泣きじゃくりながら頭をふった。

2.10.2006

道草の醍醐味

昔の仲間から呼び出しがあり、たまには、ということで築地の寿司屋に行ってきた。

ここらへんの寿司屋ではよく見かける光景だと思う。50、60代の紳士が銀座のホステスと思われる女性と、カウンター席で寄り添う。想像する。紳士の遊びなのであろう。ホステスさんの職業なのであろう。この、「過程」が。出会う。貢ぐ。落とす。出会う。貢ぐ。落とす。の繰り返し。任意のプロセス、手順、作法、なんと呼べばいいのか。

ホステス遊びにまつわる社会的な良し悪しはさておいて、何かしら筋が通ってる遊びなのだと思う。お互いの求めているものは明確だし、別に片方が相手をだましているわけでない。長期に渡って何だとか、一切関係ない。足元の遊びであろう。大事なのは、過程を重視していること。最終的な目的がアレだったら、余計なプロセスをはさむ必要はまったくないわけで。あっち系のお店に行けば済むものであって。何かを得るための努力があってこその楽しみ。達成感を味わうために余計なお金を使う。近道だけじゃつまらないのであろう。

目的地だけじゃなくて、そこまでの旅をエンジョイしちゃう。いや、むしろ旅がメインだ。結果ばかりに期待すれば、がっかりするに決まってる。それよか、一定の時間に渡って楽しむ。それがベストなのか。それが充実感というものなのか。

いい年齢した男が尻軽く遊びまわるのを支持するわけでないのだが。
ボクにとっちゃあ粋もクソもないが。でもオジサンたちにとっては粋。

2.07.2006

共通の敵

その年の冬は大層ながく、厳しかった。

小さな村は深い深い雪につつまれ、なにせ山の奥の奥にあったもので、村人は助けを呼ぶこともできず、外の者も村に来ることができなかった。手元の僅かな食料と燃料と水で持ちこたえられると、希望に頼るしかなかった。中には自らの食料を仲間と分け合ったり、他人の持ち物を奪ったり争ったり、ションボリと死を待ったり、生き残った者はそれぞれ思うように日々を過ごした。ただ、皆に共通していたのは、次死んでしまうのは我が身かという恐怖と、春はまだかまだかという静かな願いだった。

そんなある日、村長の娘が外に出かけると、庭に一つの小さな花が咲いているのを見かけた。それは今にも雪に埋もれてしまいそうな小さな花だったが、娘は村中が聞こえるように叫んだ。

「春がくるぞぉー」

村中大騒ぎになるのは当然で、皆村長の庭に押しかけてきた。

「なんでぃこんなちっぽけな花で期待させやがって」

「まだ1月になったばかりじゃ、先はまだまだ長ぇんだくだらねぇ」

「んにゃ、これは神様の仕業にちげえねぇ。このバチあたりが」

「救われてぇんだったら、花に謝るんだ。春が来なくなるぞ、このバカどもめ」

「俺にも見せろ」

「押すな、押すな」

信じる者も疑う者もいたが、花が気になるのは皆同じだった。それから何日も村長の庭は人でにぎわって、春はいつくるのか、この花はなんなのか、神は何をたくらんでいるのか、と論争は延々と続いた。不思議にもこの間、命を落とす者は一人もいなかった。

3月になるとすんなり春になった。