8.22.2009

どこまでも広がる床

「質素」という言葉が、これほど似合う人間がかつてあっただろうかと思わせる、金子安彦はそんな男だった。31才、会社員。ワイシャツは白のみ、5枚プラス予備1枚、二年に一度の買換え。朝食は決まってごはん一膳に納豆におみよつけ。夜も基本は自炊、会社行事は人の歓迎会と送別会だけは律儀に参加。恒例の花見はきまって見送り。友人関係、まちまち。女性関係、まちまちまち。

物やカネに執着しないこと、地位は与えられるものであり習得するものでなく、暴飲暴食は禁物、そして長生きの美徳、細く、そして、長く長く。この種の教えすべてが金子家の家訓だったと考えれば話は早い。安彦、欲しいものがあるときは、胸いっぱいに願いを込めて足で踏みだすのよ、と祖母がまじないのように言っていた。右手でこぶしを作って胸にあてるの。金子家は、安彦が知る限り無宗教だったが、右手でこぶしを作って胸にあてるまじないは皆知っていた。振り返れば、人前では恥ずかしくてできないが、一人でひっそりしたことが何度もある。

安彦自身、自分の生活に華がないことは百も承知でいる。その反面、今までの人生において難なく過ごせてきたのも、この育ちの背景が大きく貢献していたと自覚している。その気になっていれば、いつぞや違う生き方を選択していたかもしれない。

難なくすごせてきた。振り返れば、異常なくらいに。望んだものはすべて手に入った。希望していた小さな出版社に入ることができた。都合の良い住まいも、手軽な家賃ですぐ見つけることができた。付き合いは悪いなりに、人に愛されることなければ恨まれることもなく。右手でこぶしをぐっと作って、細く、長く長く、そのようにずっと願ってきた。

金子さん、今年の夏休みはどこか行かれるの?

ごにょごにょ。

え、ディズニーランドに行かれるの?彼女とデートですか?

あ、いや、'伊豆に'日帰りで。彼女はいないんです。

そんな会話が同僚とかわされる日があった。そうか、一部の人は女性を連れてディズニーランドに行ったりするものだ。当たり前のことがひどく新しかった。安彦は一人になってから少し考えて、ゆっくり右手でこぶしを作って胸にあててみた。

コメント0archive

Post a Comment

<< Home