6.09.2008

期待や胸の高鳴りなり

ギリシャ神話で、シシュポスという人間の男の物語がある。一応物語と位置づけてはいるが、ストーリー自体はいまひとつ内容に欠ける。早い話、シシュポスという男はある日運悪くも神を怒らせてしまい、その結末として地獄行きになる。わざわざ「神話」として残る理由が分からないくらい、登場人物もあらすじもいかんせん紙芝居レベルである。

特徴的なのは地獄でのシシュポスの取り扱いだ。相当、神の怒りにふれたせいか、彼だけとてもスペシャルな刑罰を受けることになった。彼は大岩を丘の頂上まで転がさなければならない。ただ、頂上からあと一歩というところで岩は丘のふもとまで転り戻ってしまう。シシュポスは一日も休まず、これを永遠に繰り返さなければならない。そんな地獄。どうかな、こんな地獄。

一見大変だとは思うが、いや、永遠に岩を転がし続けることは間違いなくしんどいはずなんだが、悪いことばかりじゃないんかなぁ、と。見方を変えれば永遠にやりがいを失わずに打ち込めるような気がするのだ。シシュポスにはいずれ、岩転がしという職を心から愛せる日が訪れるのではないかと。どれだけ、結果なき過程というものが喜びを引き出すものなのか。

頂上に近づく度、待ちに待ったお正月が近づくような。
頂上に近づく度、ステキなあの子に告白できるような。
頂上に近づく度、あの岩と並んで丘からの景色を眺められるような。

そんな希望や妄想にも関わらず、容赦なく転げ落ちる岩と転げ落ちるシシュポス。気づけば大晦日の後、カレンダーが1月2日。あの子には告白できず、名前を忘れられフリダシに。ただ、その痛みや悔しさにグズグズ思案しているヒマすらない。なにせ、やり残した仕事が常に山積みなのである。

とっくに死んでいるが死んでしまいたい、と思うだろうか。
明日も生きていこう、と思えるだろうか。

それとも、どうでもいいから水を飲ませろ、と思うか。

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