9.24.2007

ただのお肉であること

男はひどく落ち込んでいた。
生きる望みを完全に失っていた。
人は、望みを失ってしばらく経つと、途方に暮れてしまう。
途方に暮れてしまうと、ロクでもないことを考えたりする。
たとえば、

私はもう、ただのお肉だ。
誰の役にもたてない。

男が心のなかでそうささやいたとたんに、目の前に「怪しい男」が現れた。人のことをはなっから「怪しい」と識別することは良くないことだが、黒のシルクハットとマントと杖を身に着けた男のことを「怪しい」のほか説明する言葉がなかったのであった。そして、その怪しい男はいった。

あなたは生きる望みを失っていて、
誰の役にもたてないと思っていますね?

男はそうだ、と答えた。私は、もうただのお肉だ。誰のやくにもたてない。いっそのこと死んでしまおうと思う。私は生きていようと、お墓の中にいようと何も変わらないのだから。私は本気だ。あなたのような、黒のシルクハットとマントと杖を身に着けた怪しい人物にでもこう自然に打ち明けられるくらい、気持ちの整理がついているのだ。

重症のようですね。どれ、私の提案を聞いてください。
実はあなたは、まだ誰かの役にたてます。

それは、もしかして献血とか臓器提供とか骨髄バンクとかではなかろうな。予め言っておくが、私は自分の命に対して執着がない分、他人の命にも関心はない。いや、むしろ他人の命を延ばすような行為は返って他人に迷惑だと思ってるくらいなのだからな。

いいえ、献血でも臓器提供でも骨髄バンクでもございません。あなたは、ただのお肉ではないのです。ものの考えようですが、立派な食肉でもあるのです。どれ、私があなたを人食い部族の住む島までつれていって差し上げましょう。あなたは大歓迎されることでしょう。そして、お墓に入らずに、その人食い部族の宴の主役となり、一夜のスーパースターとなるのです。人のはかない快楽に直接貢献することでしょう。いかがでしょうか?

それは、大胆な提案だな。
痛いのか?

怪しい男の態度は一変した。うるさく舌打ちをする。
だんな、「痛い」とか考えてるようじゃまだまだ本気じゃないな。
ハンパ者は死ぬまで生きてな。

風のように現れ、風のように「怪しい男」は姿を消した。

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