6.16.2006

サブジロウのバランス

岡峰三次郎という男のお話。

岡峰三次郎の外見自体は、そこらの30代の独身サラリーマンとあまり変わらない。いや、良く見ると、少しだけだらしないのかもしれない。アズキ色の背広の肩幅が少し、広すぎる。髪の毛も、やや強引にスタイリングムースで後ろにまとめただけ。ただ、顔立ちはそれなりにはっきりしていて、見る角度によってはなかなかの男前ともいえた。

人目の届かないところで、この男、実は恐ろしく気まぐれである。
優柔不断なのではない。ただ、気まぐれなだけ。

彼自身の記憶にある限り、二日間続けて同じ時間に起床したことがない。気が向けば、起きる。気が付いたらば寝る。食事も、いつ何を食べるかは本人すらまったく予測がついていない。本を読むにしても、平気で同時に五冊も十冊も、途中まで読んだものばかりが家中にほうりっぱなし。

あーいえば、次の日はこーいう。

気まぐれのほかにも、「ぐうたら」だとか、「飽きっぽい」とか、「自己中心」と整理してしまう人もいたかもしれない。でも、それらの表現には他人の評価という意味合いが含まれている。本人にしてみれば、ぐうたらでも、飽きっぽくも、自己中心でもなかった。いい加減でありながらも人に恨まれるようなことはなかった。悪意のない、純粋な気まぐれだった。

人を相手にしたり、時間に追われるような仕事には定着できず、ガチャガチャの玩具をカプセルに詰める内職を中心に、食いつないでいた。

ある日(その日は午前9時に起きた)、腹をすかせた三次郎はスーパーに行った。レジの娘に恋をしてしまった。ショートカットになって間もない時代の酒井法子に古ぼけた水色のエプロンを無理やり着せたような娘。会計を済ませると、ニッコリ笑ってお辞儀をし、「ありがとうございます、またご利用ください」という。誰もが言われる他愛ない挨拶だが、三次郎は大いに勘違いをした。

端的に言ってしまえば、ストーカーとなった。娘の勤務日を徹底的にしらべるために、それから1週間は毎朝9時に起きた。ストーカーといえども彼女に声をかけることは全くできず、結局彼女からヨーグルトを買う行為だけにとどまった。彼女は目を合わせるたびに、「ありがとうございます、またご利用ください」という。月曜日、火曜日、木曜日の週三回は朝9時に起きた。これがしばらく続いた。

岡峰三次郎にとって、この習慣がたまらなく新鮮だった。期待されてたから、再び行く。ヨーグルトを買う。ヨーグルトを持って帰って、食す。9時に起きる。ゼロから始めたジグソーパズルのようで、二つの欠片が初めて合うようになったところから、生活の変化は加速していった。食事は一日三度食べるようになった。アルバイトを始めた。小説は終わりまで飽きないようになった。いろいろ、変わった。

彼女はある日、突然スーパーのレジから姿を消した。岡峰三次郎はすっかり落ち込んでしまい、アルバイトも辞め、以前の生活に戻った。ただ、その後はというと、いつまでも月・火・木だけは9時に目がさめるようになってしまったそうです。

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