3.17.2008

品格と秩序の先に

柳田氏は医者になる運命の男だったが、いまはパン屋さんだ。運命といっても色々あって、くつがえすことの出来ないものが主流であるが、必ずしもそうでない運命もある。柳田はそれを乗り越えていまのパン業に至ったわけだが、当人は運命に逆らった意識はない。人生一度っきりなので、運命を守ろうと無視しようと、結局成ったほうが結果に過ぎない。それだけのことである。

柳田の仕事っぷりをみれば、かなり手先が器用であることは一目瞭然だ。飴細工のような、飾りパン。機械がつくったかのように、同じ形と大きさのクロワッサンがずらっと並ぶ。焼きたてのアンパンのキツネ色も鮮やかで、こしあんは黒ゴマを一振り、つぶあんは白ゴマを一振り。仕事こそは見事だが、医者の悪い性質を引き継いだ側面もある。柳田は基本的に接客が苦手で、どのように努力しても少し人を見下した態度が出てしまう。柳田はかなりプライドの高いパン屋さんなのである。

そんな柳田に恋をしている、いや、柳田という人物像にあこがれる少女がいる。その少女は週に一回、母親とこの店に食パンを買いに来る。少女は来るたびにメロンパンやアンドーナツやクリームパンを物色するなりおねだりするが、母親はまっすぐレジに向かって仏頂面の柳田からいつもの一斤を買う。ママ、こんなにステキなパンがたくさん並んでるのに、うちはなんでいつも食パンなの?甘いものばかり食べてると太るわよ。と、そんな調子だ。

柳田のパンは決して安くない。それなりのてまひまをかけてるわけで、繰り返しになるがその上プライドが高い。少女の母親も、大きな声では言わないがそれなりに裕福な財力を握っているからわざわざこのパンを買うのだ。少女の母親は、少女に冷たくしているつもりはないが、それなりの品格を保ってもらいたいこともあって、家庭内の秩序を保つために、地味といえよう食パンを食べさせている。いつか少女がどこかの弁護士か医者に嫁ぐときに、胸を張って送り出したいという思いも少しある。

少女は柳田に引かれていく。来月から、お小遣いをもらうことになっているが、まっさきにメロンパンを買いにいくことを心に決めている。

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