3.09.2008

ユモレスク

ガラ空きの客席に向かって歌うジャズシンガー。23時過ぎの、この街唯一のジャズクラブではよくある風景。それでもいまや50才を過ぎた歌姫は今宵も何かを命がけで守るように熱唱している。手持ち無沙汰のマスターは同じグラスを何度も何度も磨いている。

曲の途中で、マスターが割り込む。

「雪見さん、岡部、今日はもう上がりでいいよ」

雪見と伴奏の岡部という男は見向きせず、曲を最後まで演奏した。岡部は無口だが、雪見と息が合っている。かれこれこの店で4年間も付き合っている。

「もう一曲歌っていくわ」

「火曜日なんだし、もう誰も来やしないよ」

「岡部、何か、ゆっくりの弾いて」

少し考えてから、岡部はシナトラの出だしを弾き始めた。もう一曲、あともう一曲、あともう一曲。最近よくある、閉店間際のマスターと雪見の間のやりとりだ。大体3曲弾き終えると雪見は諦めて、無言でステージをおりて帰る支度をする。

チリン、とドアの鈴が鳴る。

「マスターまだやってるかい?」

「あと30分だけどよろしければ。何にされます?」

「ウォッカトニックを。へぇ、生演奏かい」

「やめさせましょうか?」

「いえ、聞かせてください」

雪見は客人とマスターの会話は聞こえないが、少し、声に力が入る。客人は、その後一言も話さずウォッカトニックを飲み干す。千円札をカウンターにおき、コートを羽織る。ごちそうさま。またどうぞ。

「岡部、今夜はもう2、3曲いけるかしら」

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