9.19.2006

生きがいがあれば

千代田線が霞ヶ関駅に止まるとき、車掌はときどき不可解な運転をする。停止ラインの4、5メートル手前に一度完全停止してから、ゆっくりと最後の数メートルをわたり、そしてからドアを開ける。僕も何度かそれを経験している。最初は車掌の距離判断のミスかと思ったが、それほど単純な理由ではないらしい。車掌は先のトンネルの闇の中で「営団太郎」を目撃したので、彼が無事に逃げられるように合図をしているのだと関係者はいう。

「営団太郎」について多くは知られていない。わかっているのは、この数年間、地下鉄のトンネルの中で誰かが暮らしていて、性別はおそらく男、食べ物の残りカスがほとんどお菓子であることから年齢は高校生程度と思われている。噂によると、修学旅行で上京した少年が団体からはぐれてしまい、なにしろ切符なしで地下鉄駅に忍び込んだものだから、駅を出るためのお金がないためそのままトンネルに住み着いてしまったんだとか。噂が本当だとすれば、営団太郎はこの三年間ほど、一度も日の目を見ていないことになる。今も彼を目撃する車掌や駅員が多い。

しかし、不気味である以外、誰かに特段迷惑をかけているわけでない。食料はキオスクのゴミ箱から調達しているようで、彼に直結する盗みの被害もないと思われている。営団太郎が原因かどうかはわからないが、ときどき早朝、国会議事堂前駅のホームの隅っこで忘れ物の傘が束になって置かれていることもあるらしい。

唯一、彼と直接言葉を交わした人物は意外にも乗客だった。酔っ払った30代男性が酔っ払って赤坂駅のホームに転落したときだった。落ちた瞬間、電車が接近してるか当然確認したが、同時にひどい体臭にも気づいた。それからは数秒間での出来事だったため、はっきりは覚えていないらしい。

「ハヤク!」

営団太郎は四つんばいになり、ひたすらハヤクと男をせかす。男はその背中を踏んで無事にホームに乗りあがることができた。しばらくポカンとへたり込んでしまったが、男は再び線路に覗き込むが、営団太郎はもういなかった。トンネルの方に目を向けると、タッタッタと走ってゆく影がかすかに見えたという。そして、これは気のせいかもしれないが、「ヒャクサンジュウエンクレー!」と楽しそうな声が聞こえたという。

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