8.18.2006

縮めてはならない距離がある

お邪魔します、と言いかける。本当は、ただいま、と言うはずだった。玄関には誰もいなかったので、実際出てきた言葉は誰も聞いていない。男は片足のつま先でもう片方の靴のかかとを踏んで脱ぐ。玄関の先に見える台所の電気はついてるし、鍋も火にかかってるようだ。

台所に入ると同時に、帰ってきたってば、ともう一度声に出してみる。トイレを流す音がする。母親がエプロンで手を拭きながら台所に入ってくる。息子の姿を見ると、ぱっとエプロンから手を離す。焦り気味に、あらもう来てたの、と早口で言う。

男は思い返してみれば、母親が夕飯の支度をしている姿を目の当たりにしたのは、この家を出てからは初めてだったのかもしれない。その上、母親がトイレから出てくる姿を最後に見たのは覚えていない。なぜだか、身内とは思えないような、見てはいけないものを見た申し訳なさがこみ上げてきた。

「何照れてるんだよ」

「照れてなんかないわよ」

「さっきからずっとただいまって言ってるのに。今日はなに」

「残り物よ」

ぎこちないエピソードは瞬時に押し殺される。母親はそそくさ仕切りなおしてまな板に向かう。男はそうか、と言いながら上着を脱ぎ始める。最近どうなの、と尋ねる。

「上着脱ぐんだったらあっちでやってちょうだい。お父さんはまだしばらく帰ってこないわ。」

親父もいいけど、母さんは元気なのかって聞いてやっているのに。なによ、別にあたしはなにも変わったことないわよ、としきりに母親は言う。別にそれだったらいいんだけど。それで元気なの?元気よ。何も変わったことないわよ。そうか。あんたは上手くやってるの?ああ。仕事は慣れたの?うん。親父は最近調子いいの?あんまり良くないわね。病院は。いかないのよ。

隣のテッちゃんも帰ってきてるのよ。後で電話してあげれば。そうだね。帰ってきてたんだ。最近なにやってるの?いつもと同じよ。趣味とかないの?何、馬鹿なこと言ってるの。

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