1.09.2006

ライフライン

妻が入院してしまったため、しばらくの間、男は息子と二人っきりの生活だった。まともに子育てに参加したこともない男にとっては、あまりにも突然な出来事で、今でも振り返っては無謀な試みだったと思っている。

なにから手をつければいいのか分からなかった。息子が保育園に行っている間だけは仕事に集中していれば時こそは自然に過ぎたが、問題はその他の全ての時間だった。仕事を早めに切り上げては「今日もすみません」と同僚と上司に頭を下げ、そそくさと保育園に向かう。最初の一ヶ月くらいは会社の人達も快く見送ってくれたが、さすがに数ヶ月となると皆の表情が曇ってくる。後ろめたい気持ちを隠しきれない者も。いつになれば、いつも通りに働いてくれるのだ。いつになれば。自分でも知りたかった。

今日も見慣れぬ父親が来たと気付いた息子は大声で泣く、蹴る。お呼びではないそうだ。「大変ですね」と、若い保育園の先生はいささか笑顔で言う。「えぇ、はぁ」としか返す言葉が見つからない。

息子の手をギュッと握って力ずくで家に連れて帰る。息子は、男が歩く方向とは反対方向へ力いっぱい引っ張る。保育園に戻る方向でもなく、ただ、男とは反対の方向へ。あやしたり言葉でぼやかせば良かったものの、男は息子の手をより強く握り締めて、肩が抜けてしまうのではないかと思うくらい引っ張った。幸い、かろうじて手を上げることはなかった。ただ、買い物に行くにしても、公園に行くにしても、どこに行くにも引っ張らなければならない日々が続いた。

ある日、休日を機に息子に久しぶりにオモチャでも買ってやろうと、デパートに行った。ここでも、引っ張って、泣きじゃくる。オモチャ売場の店員や周りの親子の視線をグサグサ感じた。

「恥ずかしい」と思った瞬間だった。

「あ・・・」

手汗に滑って、息子の手を放してしまった。

息子はぬいぐるみの方向へと走っていった。

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