9.29.2005

人心魚

20年前の話です。私がちょうど30才になった頃だったと思います。
今日のように、よく晴れた、涼しい秋の日でした。海風が気持ち良かったのをよく覚えています。

当時まだ独身で、商社に勤めていたのですが、平日の仕事が忙しかった分、週末はよく都会から離れては海釣りを楽しんでいました。その日も、私は朝早くから岩石の多い海岸で一本釣りをしていました。運が悪かったためか、もう昼前だというのに一匹も釣れていませんでした。ところが、最後と思って投げた針にズッシリ、何かが引っかかりました。もう帰ろうと思っていただけ、気持ちが動転してしまって、それはもう大変な思いで釣り上げました。ご対面したのは50センチ以上の、見事なスズキでした。私はそのスズキをクーラーボックスに入れました。私はすっかり張り切ってしまって、もうしばらく釣りを続けることにしました。

ルアーを交換しようとしていたそのとき、音がしました。

トン・・・トン・・・カサカサ。

そして、声。

「やめて・・・」

空耳か。

「お願いです・・・」

地面から聞こえているようなのですが、地面には私のリュックサックとクーラーボックスしかありません。もしやと思い、ちょっとまぬけな気持ちもしましたが、私は再びクーラーボックスのふたを開けました。先ほどあれだけたくましく戦っていたあのスズキが、金魚のようにおとなしく、なんとも説明しがたいのですが魚なりにションボリ、していたのです。何がなんだかわからなくなった私は、スズキに問いました。

「音をたてたり、話しているのはお前か」

「そうです」

「しゃべれるのか」

「このとおり、しゃべっているじゃないですか」

とうとう気がふれたかと思いました。

「なんのようだ」

「逃がしてください」

「そうはいかない。今夜は私の友人の板前にお前を刺身にしてもらうのだ」

「他の者にしてください。今近くに仲間がいますから」

「他もクソもあるか。魚に、顔も名前もあるまい」

「名前はあります」

「あるのか」

「鈴木です」

「・・・」

どうやら、鈴木には一昨日タマゴからかえったばかりの小魚が沢山いるそうだった。ヨメが高齢産卵だったため、体力が落ちている。今はどうしても側にいてやりたい、と鈴木は熱心に説明した。ここまで知ってしまうと、私の中の選択肢はあまりなかった。

今日も焼き鳥かと諦め、私は鈴木を両手でつかんで、海に放り投げた。
気付けば海の夕焼けを眺めていた。

カモメの泣き声に交えて、かすかに、鈴木がケタケタ笑っているのを聞こえたような気がする。

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