8.09.2005

あそこの部屋の住民は

男はベッドの上で目が覚めた。白い壁の四角い部屋の中心に、飾り気のないスチール製のベッドにマットレスがのってるだけのベッド。天井の中心から裸の電球が一つ、ぶら下がっている。少し肌寒い。

自分が誰だか、歳も、今まで何をしてきたかも記憶がない。ヒゲもキレイに剃られていて、誰かに連れ去られていたとしても、丁寧に取り扱われたのだろうと思える。体調も悪くないようだ。どこも痛くない。紺色のポロシャツにチノパン。こげ茶色の靴下を履いてる。ベッドの右側の床に、ピカピカに磨かれた黒い革靴が置いてある。既に着ている洋服は自分のものと思えるが、靴だけは新しく与えられたようだ。靴下の色と革靴の色が合わない。それどころでないはずなのだが、それ以外に考えることがなかったので仕方がなかった。靴下と革靴の色が合わない。

起き上がると、ベッドの足元の方の壁が見えた。ドアが二つ隣同士に並んでいる。二つのドアの間の幅は数センチしかなく、どう見ても同じ部屋に通じているのではないかと思える。二つのドアには以下の文字:

左のドアには「あなたの使命」。
右のドアには「あなたの勝手」。
その下に、以下の詩がサインペンの殴り書きで付記されている:

【祈り】
変えられないことを受け止める静かさ
変えられることを変える勇気
それらを見極めるための知恵
をかなえたまえ

自分が何者かも分からないのであれば、と思い、服装と合わないピカピカの黒い革靴を履いて男は右のドアを開いた。ドアの外は小さなマンションの一部屋で、窓の外は下北沢だった。気付くとポケットにはカギと少しのお金が入っている財布があった。男はあちらこちらで音楽を奏でたり、働いたり、恋をしたり、とにかく勝手に生きた。生きるのが楽しくてしょうがなかった。

そして、なんとなくいい感じに消えていったそうな。

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アメリカのアルコール依存者更生会のモットーとして知られている、"Serenity Prayer"というのを意訳・引用しました。残念ながら著者は知られていないようです。あしからず。1920年代の作品といわれています。

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