1.26.2007

もしもこの僕が

北風が駅前の広場で吹き荒れる。
男は駆け足で新橋駅に入っていった。
川崎にある取引先を訪問するために、東海道線に乗るのだった。

もう夕方の五時。ぎゅうぎゅう詰めの下り電車がホームに到着するのを見ると、こんな時間にアポ取るんじゃないよなぁ・・・と男はちょっと憂鬱になった。ドアが開く前に、窓ガラスの向こうにかわいらしい女性がこっちを見ていることに気づく。見ていると言うより、顔が窓に押し付けられていたといった方が正確かもしれない。身長があまりないせいか、横からだけでなく上からもつぶされているようだった。その困り果てた表情がなんとも可愛らしく見えたが、これから自分もその中に入ろうとしていることにちょっと気の毒にも思った。俺、臭くないかな。ふと、昼食に何かきついものを食べていないか思い出そうとする。とっさに思い出せないので、両手を口に当ててはぁーっと息を吐く。寒くて、臭いはよく分からなかった。

ドアは開き、男は背中を押す駅員に身を任せて電車に乗った。熱気。こんなときはそんな可哀想な女性に「すいません」とか、「大丈夫ですか」とか声をかけたくなるものだが、それはその子にとって何の気休めにもならないと思ってしまう。ちょっとうつむくと、その子の頭の上が目の前にある。綺麗に整っていたであろう髪の毛からいい匂いがする。こんな時間まで、いい匂いが続くものだと男は不思議に思った。

アナウンスが流れる。熱海行き。

何度妄想したことだろうか。そのまま川崎を通り過ぎ、熱海に直行して一泊してしまう。この子も誘おう。「すいません」でも「大丈夫ですか」でもなく、「このまま一緒に熱海に行きませんか」。悪いことなんかしないし、夕飯を食べて、別々の部屋で泊まって、次の日はちょっと散歩でもして、東京に帰ってきて、一度も名を聞かずにさわやかに別れるのだ。ずいぶんキザな妄想だこと、男はちょっと鼻で笑ってしまう。

電車はその男の下心の「無さ」を信じない。
川崎駅にたどり着くと男の身体ごと勢いよく吐き出す。
その子も押し出されたようだが、落ち着いてまた電車に乗ってしまう。
悲劇の別れ、である。

改札への階段を上る男は笑顔だった。

取引先の応接室の席に腰をかけながら言う。

「そのまま熱海まで乗ってしまえ、って思ったことありませんか?」

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