8.10.2020

エントロピー

増本秀樹、42才男、派遣社員、独身。

社会人20年もやっていれば、多かれ少なかれ「ルーチン」が身についてくる。なにも珍しいことじゃない。一日一日の仕事を円滑に進めるための基本動作。予期せぬ事故がおきないための予防策。余計なことを考えないための、精神衛生を保つための糧。無事に過ごせるためのおまじない。

増本のルーチンの例。朝出かける前、玄関での最終チェック。右手でズボンの右ポケットの膨らみをポン、とタバコよし。左手で左ポケットをポン、と携帯電話とパスケースよし。カバンの口を再び開いてサイフカギメガネを目視してよし。あえて玄関からキッチンに戻って火の元よし。最後の最後に靴を履いて、イヤホン装着してレッツゴー。

ごく簡単なルーチンである。それでも世の摂理はいたずらなもので、形あるもの全てを散らかしにくる。例えば部屋を片付けても、「片付け続けなければ」再び部屋は散らかってしまう。

ついこないだ、増本はたまたまの深酒で朝寝坊してしまった。出かけるルーチンはほぼ守れたが、イヤホンを忘れてしまった。気付いた頃には家から大分離れてしまい、戻ってやり直す時間の余裕もない。違和感を感じながらも、その日はイヤホンなしで過ごすことにした。

駅のアナウンス、電車のガタゴト、周りの会話、自分の足跡や街の雑音。夜の帰り道の静けさや、隣の部屋のベランダから聞こえる風鈴の音色。久しぶりに聞いた音がたくさん入ってきた。

たまにはいいか、と思った。

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